テューリンゲンの森の小さな村のお葬式 (3月11日金曜日)

村の教会の墓地の入り口
義理の父は9人兄弟の一番下である。
もう、殆どの兄弟たちは、他界してしまって、後はすぐ上の兄さんとたった二人きりになってしまった。
そんなおり、先週、甥っ子から電話があり、数少ない生存している親戚のひとりが、又なくなったとの知らせを受けた。
3番目の兄さんは、とうに他界してしまったが、その奥様が亡くなられたとのことだった。血は繋がっては居なかったが、この奥様とは同じ教師仲間と言うこともあり、とりわけ仲が良かったらしい。
敬虔なカトリック信者だった、旦那の父方のおばあさんと、同じように、この亡くなられたおば様も、共産主義のDDRにありながらも、敬虔なカトリックの信者さんだったらしい。そして又、小さな村の小学校の校長を勤めていた女性でもあった。
一度もお会いしたことすらも無い、このおばさんにしたら、私のような日本からきた甥っ子の嫁さんに、お葬式に出席されようとは、全くもって、考えもおよばなかっただろうな。

出席した私自身、一番前の親族の席で、私がハンドバックを車に忘れ、最後に入場したために、ど真ん中の神父様のすぐ前の座席で、出席するはめに陥ってしまったことには、少々緊張と、なんで〜と言う気持ちに襲われたことは確か。。
旦那も、アウトバーンの5号線を通って、元の東ドイツに向かうたびに、このおばさんにだけは、私をあわせたいと言っていたのだが、結局、あえないまま、他界されてしまった。
義理の両親達が、2人の兄さんのお墓にもお参りをしたいと、前日から泊りがけで、テューリンゲンの森までやってきた。
行程はそんなに、遠くは無くて3時間ほどだった。
前回のお墓参りも、今回のお墓参りも、広大な墓地の中から、FAMILYのお墓を最初に発見したのは、何故か2度とも私だったことに、お義父さんは、とても、うれしがっていた。

スコップが用意されていて、親族はこのお墓に土を入れる

親族の集会のあったGASTHAUS
私は、今回ドイツに来て初めてセレモニーらしいセレモニーに出席したのだった。そのことに、出発前確かに少し興味はあった。
ゆきんこりじーにも書いたように、スーツケース2つで、東独から、おじいさんの、それこそ、お葬式だからと言うことで、家族全員でに西にやってきて、そのまま、帰らなかったのだ。
左のGASTHAUSは、教会のすぐ側にある。
礼拝の後、教え子も含めると、総勢100人近くの人が、ながーいながーい列を作って、まずは、お骨(もう既に火葬され、つぼに納まって入らしたので、礼拝は、ご遺体のまえではなかった)ヲ銭湯に、そのすぐ後に、十字架、神父様、そして息子さんと、続く。
それから、我々親族。
FAMILYのお墓までやってくると、上の写真のように、お墓は開かれていて、そこに、お骨が収められ、親族友人たちというふうに、用意された、バラを一輪ずつとって、スコップで土に戻ってください。と、なる訳である。全員が土を入れるのではなく、大勢の人たちは、その儀式が始まると、十字を切って三々五々帰っていった。
その後、親族だけが集まって、コーヒータイムとなった。
旦那も、全く初めて会う人たちばかりであったが、そんなに、打ちひしがれた感じは無く、和気藹々のムードだった。
以前、日本で、お葬式と言う映画がヒットしたが、あれはドラマと言えども、何となく、似たり寄ったりと思っていたが、険悪な親戚同士のムード、探り合いのムードなどというのは、全く無かった。
元東独の小さな村では、アジア人というとベトナム人だと思う人が殆どだろうが、私のことは、義父が既に、日本人の嫁といくと、宣伝?が行き届いていたせいか、何人?と、聞かれはしなかった。不思議そうにまじまじと眺め回すのは失礼だけど、でも、ちらちら見てみたいという視線は感じた。どういうわけか、姪っこ達しかおらず、(甥はいなかった)大変美しい子がいて、旦那は隣に座れてご機嫌だったようである。
2時間あまり、お喋りしたのち、もう一度全員で、お墓に戻ると、祭壇に礼拝のときに飾られていた、お花が、お墓に置き直されていた。
真紅のバラと、ユリのコントラストが、私には、忘れられない。