2004年2月23日(月曜日)ローゼンモンターク
あれは、もう5年前になるのか?

ジュネーヴで開かれたテレコムメッセで、約1ヶ月、働かせてもらった。
私は途中で不覚にも鬼の霍乱か風邪を引き高い熱が出て、メッセが始まるとともに、リタイヤしてしまったのだが、、。
その99年のテレコムメッセの某社のパヴィリオンのデザインをした設計家のSさんから、なんと!今、ベトナムなんです。とTELがあったのは、去年の里帰りのすぐ前だった。
ベトナムでのプロジェクトが、ひと段落した彼も、帰国とのことで、日本の私の実家のある神戸の年末の風物詩となったルミナリエにて、5年ぶりの再会を果たした訳だ。

そして、今日は、フランクフルトへプラハから、立ち寄る彼を迎えに、空港へと向かった。家を出る前のTVのテキストでは予定通りのまま到着、やはり、空港へついたら20分遅れ。
しばらくすると45分遅れとなり、1時間近くターンテーブルで、待っていると彼が現れた。
プラハからの便はいつもこのパターンが多い。

旦那もロ−ゼンモンタークの今日は学校が休み。
一緒に迎えて、旅人が来るとお連れする、お決まりの、ライン河畔へと向かった。
1時以上も時間をロスし、空港を出発できたのが13時。
日本と違い、昼食のオーダーストップは、14時。それを過ぎると、コックさんがいなくなって、ケーキや軽いものしか食べられなくなるのが普通だ。急がなくては、、。

空港から30分も走るとライン川がみえてくる。
このあたりのライン川は、川というよりも、川幅が400M以上もあるために、湖か池のようにも見える。

どうしても、地獄山の赤ワインで有名なアスマンズハウゼンで一度チェックしておきたい場所があって、向ったが、さすがに今日は一番華やかな行列があるカーニヴァルの日なのだから、仕方がなかったが、心配していた通り、すべての店という店は閉まっていた。
ライン河畔で、カーニヴァルを盛大にしない町など存在はしないことは、わかってはいたのだけれど、それはまさしく、本当なのだった。すべてのHTLのレストランさえも、、オープンしてはいなかった。

おなかをすかせてはいたけれど、ルート上また後戻りは出来ないので、いつものように、リューデスハイムからは、ニーダーヴァルドの統一記念碑を見学。
その後は、一度行ってみたかった、聖女ヒルデガルドが、最後に建造したアイビンゲンの修道院へと向かった。

ヒルデガルドは、ディンケル麦をはじめ、薬草の効用なども熱心に書き記し、フリードリッヒ赤ひげ王も、バティカンより、預言者のお墨付きのあった彼女に、帝国の安全祈願を頼んだとされている、ドイツでは有名な聖女だ。
でもちなみに彼女は、バティカンからの聖人とは認められていない。

行ってみると、残念。修道院は修復中で、なかの見学は不可能だった。
仕方なく、SHOPへ入り、薬草と、BIOのクッキーを買い求めて、あきらめた。


アイビンゲンの修道院


今日は、なんだか変な天気で、われわれが行く方向に、黒い雪雲が現れては、通り過ぎると青空になる。
真っ青な空のなかでの、雪景色。
面白い光景だった。そして、美しかった。
まるで、木々に、雪の花が咲いたようだった。


その後は遅摘みワインの発祥の地の有名名ヨハネスベルグへと向かい、遅めの昼食にありつくことが出来た。
ここは、何度も私の日記にも登場するがフルダの修道院の所持領だったのが、ウィーン会議でメッテルニヒ家のものになり、今は株主は食品会社であるが、最後のメッテルニヒの子孫のお姫さまが生きていらっしゃる間は彼女の居住区は立ち入りは禁止である。
ガラス張りの温室のような軽食レストランは、ぽかぽかして、外気とは程遠い温度差で、暑く、汗ばむほどだった。
外には、ブドウ畑が広がり、北緯50度の標識も、古いロマネスクの教会も望める。


だいぶ影が長くなった午後、話の途中で、彼が興味を示した、ショーンコレリー主演の映画、バラの名前の撮影に使われた、エーバーバッハの修道院へと行くことになった。


われわれについてどうもやってくる、というか、われわれがついていっているのか、雪雲には、また遭遇し、到着したときには、降りしきる雪で、ムード満点。ちょうど、こんな感じの映画だったね!と、話が弾んだ。


エーバーバッハの修道院
今は、ヘッセン州のワイン研究所

一面の雪景色にカエルに注意の標識が見える!?

しばらくすると、うそのように晴れ上がり、ほとんど沈みかけた日のなかで、写真を撮って、帰路についたのだった。